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フォレストラバー

気になることや好きなことを淡々と

トイプードルの威を借るアタシ

青春ノイローゼ-陰口 青春ノイローゼ 芥川ヌキ之介(著)


「やっぱりオレってさ、音楽に囲まれて暮らしてないと駄目な人なんだよね~」

 

電車で隣に座ってきた男の会話からそんな言葉が漏れ聞こえてきたので「知るか、ボケ」と思いながら僕は心の中で盛大な舌打ちをした。そんなことを電車で大声で言ってる奴は、音楽に囲まれて暮らしたところで駄目な人間だ。そんな風に心の中で噛みつくのはあまり良いことではないのだが、どうしても思ってしまう。これは僕の病気なのだろう。


彼の意見を聞いて僕は思う。

 

たしかに音楽は素晴らしい。僕だって好きだ。思春期の頃は音楽に救われたり、自分の思い出を音楽に重ねたことだって少なからずある。たまには身体を縦に揺らすことだってあるだろう。


だから僕が引っかかっているのは音楽が好きとか嫌いとかじゃなく、財布にチェーンを付ける感覚で音楽好きを公言して、ファッション感覚で音楽を愛するオレを演出しているところなのだと思う。

 

つまり、音楽は素晴らしいものだが音楽を愛しているお前は別に素晴らしくないという事実だ。

 

『虎の威を借る狐』ということわざがあるが、まさに音楽を愛するアピールと重なる部分がある。の部分がこの場合音楽にあたる。つまり音楽の威を借るオレという事になる。

 

薄っぺらな人生を送ってきたオレでも音楽に囲まれて暮らしてきた』と宣言するだけで、奥田民生的な何となく肩の力を抜きながら好きなことに情熱を燃やして生きてきた素敵な大人に見せることが出来る。なんとお手軽なことか。

 

そんな『音楽が好き』という名のオシャレなアクセサリーを腰からジャラジャラぶら下げて、自分までオシャレになった気にならないで欲しいのだ。正直わずらわしい。

 

 

ちなみに、ブスが可愛い犬と一緒にSNSにうつるのも同じ理論だ。強烈に演出された『トイプードルを可愛がるアタシというファッション。

 

でも可愛いのはトイプードルであって、アタシではない。アタシはブスのままだ。ブスとして生を受け、ブスとしての命を懸命に生きるしかない。僕だって懸命に生きている。

 

とにかくトイプードルが好きで、トイプードルの写真だけを狂ったようにSNSにあげている人達はまだわかる。余計なお世話ではあるものの、アタシのトイプードルの可愛さをおすそ分けします的な善意とサービス精神が伺えるからだ。


それなのにアタシはいつだってトイプードルの画面にフレームインしたがる。何故、トイプードルだけではなく、アタシも一緒にSNSにあげてしまうのか。


もしその写真を見て第三者から「えー可愛いー」と言葉を発せられたところで、その「えー可愛いー」は100:0で全てトイプードルに投票されている「えー可愛いー」だ。アタシに投票された「えー可愛いー」は一票もない。


全てトイプードルが稼いだ「えー可愛いー」をまるで自分の「えー可愛いー」のように喰い散らかすアタシ。自分自身が『トイプードルの威を借るアタシになっていることに気が付いているのだろうか。

 

挙句の果てに「ラテアート」やら「青空」やら「全粒粉のパン」などのアクセサリーを全身に纏う怪物のようなアタシが誕生する。もはやアクセサリーで全身をグルグル巻きにされて、身動きもとれず、自分自身が誰なのかもわからないだろう。だから、全国のアタシたちは自分探しの旅とやらに行く羽目になるのかもしれない。


そんな僕みたいな病気的考えを持った人間が今みたいな意見を言っていると、好きなことを好きと言って何が悪い。という意見の方とぶつかる時がある。それも正論だ。別に悪くない。好きなことを全てさらけ出しているなら別にかまわない。

 

でも好きなことの中からセルフプロデュースに使えそうな『”オシャレで”好きなこと』だけチョイスしている所には、やはり引っ掛かってしまう。オシャレという鉄壁のコーティングでカッチカチにしてあるからこそ、その中身が強烈な異臭を放っているように見えてしまう。


別に人間なんだからオシャレな事以外も胸を張って公言すればいいのに、と思う。一日履いた靴下の臭いを嗅がないと一日頑張った気がしないとか、休日の前の日だけは下半身に何も身に着けずに過ごさないとリラックス出来ないとか。オシャレで格好いいことだけを選ばずに、格好悪くてもオープンに生きれば自由で軽いのに。

 

理想を言えば、

 

「やっぱりオレってさ、AVに囲まれて暮らしてないと駄目な人なんだよね~」

 

なんていう声が電車で隣に座った男から大声で聞こえてくる日がくることを僕は願っている。いや、別に願ってはいないか。