はじめに
ワールドカップ直前に起きたドタバタのハリルの解任騒動の頃、本大会での日本代表の躍進を誰が予想できただろうか。
約二ヶ月ほどの準備期間しかない中で、西野監督はよくチームをまとめあげて決勝トーナメント進出を果たしたのではないかと思う。
ハッキリ言って奇跡といってもいいほどの勝負運を西野監督は持っている。
あらかじめ言っておくと、僕はハリル派でもなければ西野派でもなく、日本代表を含めたサッカーそのものをこよなく愛するサポーターだ。
ただのサッカー好きなので、批判や賞賛が溢れかえるサッカーの世界で、割と多くの人の意見をフラットに聞くことが出来るのは、自分自身にとって良いことだと思っている。
ハリル支持派の意見
そのフラットな立場から見て興味深かったのは、ハリル監督が解任された後によく聞いたハリル支持派の人からこんな意見。
「縦への意識」
「デュエル」
といったハリルの言葉は世界のサッカーのスタンダードなので、
<ハリルのサッカーの方向性は間違っていなかった>
というもの。
サッカーにおいて、ボール奪取から10秒の間に攻撃に転じたときの得点率が最も高いというのはデータも証明しているので、その意見については同意せざるを得ないだろう。
また、フィジカル面で見劣りするイメージがある日本サッカーにおいて、1対1の勝負に勝ち切り、縦に早いカウンターから効率よくゴールを奪うことができれば、日本の長所である組織的な守備と合わせて強豪国とも渡り合えるかもしれない。
縦に早いサッカーはできていたのか?
では現実問題として、ハリルと日本代表はそのサッカーが出来ていたのだろうか?
そう聞かれると、答えはNOと言わざるを得ない。
方向性が間違っていなかったハズなのに、やっているサッカーがとても退屈で、縦に早い攻撃から得点がさほど生まれていなかった。
アジア予選を通じてワールドカップ出場という結果こそついてきたが、ゴールシーンは別に縦への意識とデュエルで生み出しているわけではなかった。
やっている方向性が間違っていないのに3年間も退屈なサッカーしかできないのは、
<日本人に合ってない戦術>
だったのかもしれない。
あるいは、
<ハリルの要求にこたえられない選手たち>
に問題があったのかもしれない。
ただ、普通の会社で「部下の能力が低いから売り上げが上がらない」なんて言っている上司に誰が信頼感をよせるだろうか。
また、3年間も時間があったのにないものねだりをしならがワールドカップに出られても困る。
残された他の可能性といえば、ハリルの理想とするイメージもしくは伝えたいことが伝えきれていないという、
<コミュニケーションの問題>
という意見だ。
原因は一つではないにせよ、僕自身はこのコミュニケーションの問題が一番大きかったのだろうと信じている。
・・・のだが、どうやら世間はそうでもないようで、ハリルが可哀想という意見があまりにも多くて驚いたものだ。
本音と建前のある日本社会では、人と人の関係性を第三者が見て判断するのはとても難しいのだということを痛感した。
話はそれてしまったが、田島会長が言っていた、
<コミュニケーションの問題>
という部分において、僕はハリルの会見と西野監督の著書にその答えが書かれていると思っている。
ヴァヒド・ハリルホジッチはなぜ解任されたのか?
西野監督が目指すサッカーとは何なのか?
それらを読み解いていきたいと思う。
勝利のルーティーン-常勝軍団を作る、「習慣化」のチームマネジメント-
単調な練習を「続ける力」だけが勝者のメンタリティーを作る。96年アトランタ五輪で「マイアミの奇跡」を起こし、Jリーグ通算244勝という最多勝利記録を打ち立てた男の至高の指導論!(引用|amazon)
監督業の細かいことが書かれているのはもちろんだが、どちらかというと組織におけるマネジメントの仕事の考え方について書かれている印象を受けた。
その内容は緻密にして繊細。よくぞそこまで気を使いながら仕事をしたもんだと感心してしまった。もっと早くに読んでおけばよかったと後悔したほどだ。
ちなみに今回はタイトルにある「習慣化」について特に触れるつもりはなく、あくまでも監督の目指すサッカーとハリルとの違いにのみフォーカスした記事になる。
「習慣化」について知りたい人は、手に入れて読んでみて欲しい。
ではここからは、内容を抜粋して西野監督のサッカーに対する考え方を浮き彫りにしていきたいと思う。
※引用部分は全て本作からの引用とする
コミュニケーション
まずはコミュニケーションについて。
ハリルが会見で言っていた内容で、
「だれが私とコミュニケーションの問題があると言っていたのか教えて欲しい。」
という言葉を聞いたときに僕は少し疑問を覚えた。
監督の仕事は人材を管理するマネジメントの仕事でもある。
一般企業でもそうだと思うが、マネジメントの仕事をする人間は業務に当たる人間の気持ちを気遣い、真摯に組み上げる必要がある。
選手の気持ちを100%理解している監督など存在しないが、少なくとも選手や周囲のスタッフから何も言われなかったから私に責任はないというスタンスは通らない。
むしろ、そういった問題点を周囲の人間からコソッと耳打ちされないことにこそ、問題があるのではないか。
その点では、西野監督はその間を埋める努力をする人物であることが、以下の文から読み取れる。
選手の本当のナマの声というのは、なかなか監督には直接届かないものだ。
だからその間を埋めるために、あらゆる角度から選手を観察し、見えにくい選手の本音や考えを知る必要がある。
先入観やピッチ上の振る舞いだけで、選手の個性を決めつけてはいけない。
ハリルは、
「急に解任された。」
「問題があるなら言ってくれればよかった。」
と言っていたが、自分が社員の立場だった時に仕事をする上で信頼のおける上司や同僚に対して、現状のリスクや自分の意見を伝えることはあるはずだ。
3年間もあったのに、話をしてもらえるだけの信頼関係も築けなかったのだろうか?
その孤立した状態こそが<コミュニケーションの問題>だったことを示しているように思う。
また、不満を持った選手に対する対応で、以下のような文もある。
試合で自分の想定と違う起用をされると気分を害し、態度にも出てしまうことがある。
前の時と同じ状況なのに「なぜ、俺じゃないのか」という気持ちになってしまうのだ。
そういう反応が見えたらきちんと説明をしなければならない。
選手にとって、試合に出れるかどうかは何よりも大切なことだ。
監督の選手起用に関して、その本人に不満の兆候が見られた場合、西野監督は選手との意思疎通を図るため、本人が試合に出れなかった理由をしっかりと説明する監督なのだ。
これをないがしろにすると、不満がたまり監督との間に決定的な溝が生じる。
ハリルは解任時の会見で、
「オーストラリア戦のあと2人の選手が試合に出れなくてがっかりしていた」
「そのことを私は悲しく思いました」
とも言っていたが、ハリルはその選手たちと意思疎通を図りお互いの意見を交換したのだろうか?
がっかりしていたのであれば、その選手がモチベーションをもう一度高められるようにするのもマネジメントの仕事だ。
もしもハリルがその仕事をないがしろにしていたのであれば、やはりコミュニケーションに問題があったと言わざるを得ない。
選手の判断
そういえば以前、日本代表の試合中にハリルが大声で、
「蹴れ、蹴れ、蹴れ」
といった指示だけをしていたという選手たちの証言もあった。
僕が選手だったらそんな指示では困惑するばかりだ。
意味が分からないし、それを実行したところで効果的にゴールにつながるとも思えない。
そもそもそんな指示は、ピッチ上での選手の判断を鈍らせるものだ。
対照的に本作には、選手への声のかけ方で気を付けている点も書いてあった。
選手に声をかけたり、指示を与えたりする時は、「こうやれ」とか「こうしないとダメだろ」とか、できるだけ命令口調にならないように気を付けている。
命令口調をさける。
これはつまり、プレーを断定せずに選手に選択肢を与えるということだ。
サッカーはすべて自分で判断しなければならないスポーツだ。
ピッチ上の状況は刻一刻と変化する。トレーニングでいくら相手を想定したシミュレーションをしていても、相手が裏をかいてきたら、こちらも違う判断をしなければならない。
試合に入ったら、監督が事細かく指示を送ることはできないし、いざボールを持ったら、チームメイトに相談するヒマなんてもちろんない。
選手は無数にあるプレーの中から、ベストな選択をしなければならない。
それなのに、監督が常に命令口調でああしろ、こうしろと指示ばかりしていたら、サッカーに必要な「判断力」が身に付かない。
なんでもいいからとにかく、
「蹴れ、蹴れ、蹴れ」
といった指示だけをおくるという行為は、サッカーにおいて愚の骨頂である。
数秒目をはなしただけで大きく局面が変わるフットボールでは、その状況に合わせた判断をピッチで行わなければならない。それは攻撃にしても守備にしても同じだ。
新人社員の「指示待ち状態」ではないのだから、ピッチで想定外の事が起きた時に対応する「判断力」を養うことも考えて指示を出す西野監督の考えには大いにうなずけるものがある。
そして、この「判断力」というものが、西野監督の目指すべきサッカーを指し示すキーワードなのではないかと思っている。
目指すべきサッカー
西野監督はガンバ大阪時代のイメージが強いので、攻撃的なサッカーを好んでいる監督のように思える。
”攻撃的”という言葉の定義の問題もあるが、西野監督は以下のような意味で”攻撃的”を捉えている。
攻撃的なサッカーとは何か。それは”攻撃が完結できる”サッカー、つまり得点ができるサッカーである。
得点ができるサッカー=攻撃的なサッカー
当たり前といえば当たり前のことだが、西野監督は得点を取ることにこだわりを持つ監督である。
得点を取ることへのこだわりは、西野監督が攻撃的な監督であると思わせる理由のひとつになっている。
そしてその得点にいたるアプローチに「判断力」というキーワードが深く関わっている。
「判断力」についてはガンバ時代について書いてある記述を読むとわかりやすい。
攻撃的なガンバ大阪のスタイルが確立できたのは、ポゼッションを目指したからではない。
先々のプレーをイメージして実践できる技術と戦術眼を持った遠藤(保仁)や二川(孝弘)橋本(英郎)ら優秀な選手が中盤にいたことに加え、チーム全体が同じ絵を描けるようになったからだ。
元からポゼッションを目指していたわけではなく、向いている選手、ピッチで自らの判断で行動できる選手がいたからポゼッションを選択したようにも思える言い回しをしている。
優れた戦術眼を持つということはつまり、ピッチでの「判断力」があるということだ。
戦術眼に優れ、視野が広く、パスセンスと技術がある選手がいた当時のガンバ大阪というチームは、ピッチ上での「判断力」が優れた選手がいたからこそ成り立っていたチームなのだろう。
ゆえに点が取れるのであれば、カウンターでもポゼッションでもどちらでも良かったのかもしれない。
ただし、読んでいる限りだと西野監督的はポゼッションにそれなりにこだわりがあるようにも感じる。
ポゼッションについて
なぜ、ポゼッション(ボールの占有)なのか。
ポゼッションの優位性は、自ら攻撃のアクションを起こして仕掛け、ゴールを奪えることだ。
ポゼッションしていれば、速攻、遅攻を使い分けられるという利点もある。
さらには、自分たちがボールを保持している限り、失点はしない。
その時間が長ければ長いほど、失点のリスクは抑えられることになる。
ポゼッションの優位性については今さら特に語るべきことはないのだが、
ポイントはここの部分。
ポゼッションしていれば、速攻、遅攻を使い分けられるという利点もある。
西野監督はピッチの中央に「判断力」に優れた選手がいれば、遅攻でポゼッションしつつ押し込むことも出来るし、速攻でカウンターに移行することも可能であると考えているのだ。
監督が交代した日本代表においても「判断力」さえあれば、ハリルが植え付けた「縦への意識」を殺すことなく、ポゼッションと併用しつつカウンターを効果的に生かすことも可能であると考えているはずだ。
カウンターについて
ゆえに、西野監督はカウンターを否定しているわけではない。
単純に、得点につながる可能性だけを考えれば、パス1、2本で前線につなぐカウンターの方が確率が高い。
チームの戦力分析をし、選手層や個々の能力・特徴を見て、その戦術がゲストだと考えればそれでいいかもしれない。
サッカーにおける得点の61%はボール奪取してから10秒以内の攻撃であるというのは、事実として受け入れなければならないものだ。
足が速い選手がいたり、正確なロングフィードを蹴れる選手がいる。
もしくは相手のディフェンスラインが高く裏のスペースがあるなどの条件によっては、西野監督もカウンターをベースに戦術を組むことがあるのかもしれない。
それでもポゼッションからの攻撃が出来るようにしておくのは以下のような感覚を持っているからに違いない。
だが、カウンターしか攻撃の手段がなければ、どうしても選手たちの意識は守備の方に向いてしまう。
サッカーにとって大事なことは、いかに多くのチャンスを作り、得点するかだ。
おそらく西野監督は、カウンターのみに依存するサッカーを否定しているだけなのだ。
ハリルはカウンターのみにこだわりすぎて結果が出ずに自滅していた。
ただし、カウンターの得点率が高いのも事実。
この問題の正解は、結果の中にしかない。
「カウンター」と「ポゼッション」について、両監督の考え方の間には決して埋まらない溝がある。
選手交代について①
2002年の日韓ワールドカップで韓国代表を率いていたヒディング監督の選手交代に対する面白い記述がある。
だが、ヒディングは、その采配をマジックにしてしまった。
特に、イタリア戦を見ていると、強い信念を持って動くことで、劇的な瞬間が生まれると知らされた。
やはり選手交代いかんで流れは流れは変わるものだと、実感したものだ。
~中略~
それまで私はずっとヨハン・クライフに憧れていたが、日韓W杯のヒディング監督には、本当に圧倒された。
この時の彼の采配は、今も私の指針になっている。
日韓ワールドカップの時のヒディングといえば、イタリア戦で勢いに乗って4トップともいえる超攻撃的な布陣を敷いていたインパクトがある。
選手交代でイケイケになった時は、絶対に点を取り切るぞという勢いがチームに生まれていたのは間違いない。
西野監督もヒディングの采配が自らの指針になっているとまで言っている。
だが、西野監督も同じように勢いを重視して攻撃に攻撃を重ねるサッカーを求めているかというと、実はそうでもない。
リスクを負ってはいけないところがあるし、もう少し全体的なバランスを考える必要がある。
完全にバランスを崩してまで、攻撃に傾倒するサッカーは、ときには逆の結果を生むことになる。
私は面白いサッカーをするためならば、勝負を度外視して攻めに徹するべきと思っているわけではない。
勢いに任せた交代カードで全体のバランスを崩すことを良しとしない。
流れに任せてゲームを進めるのではなく、あくまでもバランスを整えている中で攻撃に比重を置いていくという考え方。
このあたりの考え方に西野監督がロマンチストでありながらリアリストともいわれる理由があるのかもしれない。
思わずニヤリとしてしまった部分だ。
選手交代について②
また、選手交代のこだわりはそのタイミングにも影響している。
相手のチームの動きを見て、リアクションで対処するというよりも、試合が動きそうだなと思ったら自分から動く。
そうやって、状況を変化させていく。
それに合わせて相手がメンバーを交代させてきたら、さらに相手の思うようにさせないカードを切る。
常に自らアクションを起こして駆け引きをしながら、相手の思考を狂わせるような交代が大事だと思っている。
西野監督が攻撃的な監督であると思われるもうひとつの理由は、この先手を取った選手交代ではないだろうか。
常に先に動いて試合の主導権を譲らないという考え方。
Jリーグ2011シーズンでガンバ大阪を率いていた西野監督が、
「殴られたら殴り返すスタンスではなく一方的に殴り続けたい。奇麗な顔で終わりたい」
という名言を残したが、この一方的に殴り続けるというのは、主導権を取り続ける選手交代から生まれる考えなのではないだろうか。
それにしても今さらだが、
一方的に殴り続けたい。奇麗な顔で終わりたい
という発言は過激だ、笑。
この時に限って言えば、発言がなによりも攻撃的と言えるかもしれない。
クラブ監督と代表監督
現在、SAMURAI BLUE 日本代表を率いている西野監督だが、以前は、
- U-20日本代表監督
- U-23日本代表監督
- 柏レイソル
- ガンバ大阪
- ヴィッセル神戸
- 名古屋グランパス
と、代表監督とクラブ監督の両方を経験している人物だ。
財源や選手に限りのあるクラブの中で結果を出すクラブ監督
と、
自由に選手をチョイスしてやりたいサッカーを実現させる代表監督
は似ているようで大きく異なる。
必要とされる資質も違うのではないかと僕は思っている。
ちなみに西野監督本人はというと、
私は、代表監督、クラブの監督のどちらの仕事にも魅力を感じているが、自分自身はどちらかと言えばクラブ向きの指導者だと思う。
と、自分のことを評価している。
本来であれば、好きに招集して短期間で作り上げるというより、時間をかけてメンバーからチームの色を生み出していくことに喜びを見出す監督なのかもしれない。
それなのに2ヵ月という短い期間でワールドカップに臨んだことは相当なプレッシャーだったに違いない。
そういった意味では、やりたいサッカーがあり、明確なビジョンを形にしようとしていたハリルは代表監督向きだったともいえる。
しかし、代表向きのハリルがクビを切られ、クラブ向きの西野監督がワールドカップで結果を残している。
サッカーとはピッチの中だけではなくピッチ外でも思うようにいかないものだ。改めてサッカーとは本当に面白いスポーツだ。
まとめ
個人的な憶測も含めてだが、
ピッチで実際にプレーする人間の考え方や気持ちを受け止めることがハリルには出来なかった。
逆にピッチでの選手の「判断力」を生かすことが出来たのが西野監督のサッカーだ。
それでももちろん、ハリルがやってきたことが全くの無駄なわけではなく、
「縦への意識」
「デュエル」
といった意識は、ポゼッション率が上がった現在の日本代表の中でも生きてくるはずだ。
西野監督はカウンターよりもややポゼッションの優位性を大事にしているが、カウンターを否定しているわけではない。
その柔軟さがハリルがやろうとしていた縦に早いサッカーと、ポゼッションの優位性を融合したスタイルとしてワールドカップでインパクトを残すことになった。
また、リアクションとしての選手交代ではなく主導権を自ら確保し続けるための選手交代をして一方的に殴りたいという西野監督はサッカーも考え方も攻撃的だ。
本来、西野監督は時間をかけてチームを作り上げる方が性に合っている人物だと思うので、4年ないし8年といった長期政権で日本代表のアイデンティティーを磨いてもらいたい。
僕は攻撃的でユーモラスな西野監督のことをこれからも応援していきたいと思う。