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僕は小説『ナラタージュ』が狂おしいほどの恋だとは思わない-島本理生

ナラタージュ (角川文庫)

映画化された『ナラタージュ』という作品の原作小説を読むと、描かれている感情がツラすぎて胃が痛くなってくる。決して叶わない恋愛。逃げ出したくても逃げ出すことのできない心の葛藤が悲鳴のように書き連ねられている文章に、読み手の方が目をそむけたくなるような、そんな痛みに溢れた恋愛小説だ。

 

作者の島本理生さんが22歳の頃の作品かと思うと、そのあふれ出る才能に嫉妬したくなるほど鮮やかな恋愛描写が綴られている。今回は島本さんの若き日の傑作恋愛小説のネタバレ感想を書いていきたいと思う。

 

 

ナラタージュ 

あらすじ

お願いだから私を壊して、帰れないところまで連れていって見捨てて、あなたにはそうする義務がある―大学二年の春、母校の演劇部顧問で、思いを寄せていた葉山先生から電話がかかってきた。泉はときめきと同時に、卒業前のある出来事を思い出す。後輩たちの舞台に客演を頼まれた彼女は、先生への思いを再認識する。そして彼の中にも、消せない炎がまぎれもなくあることを知った泉は―。早熟の天才少女小説家、若き日の絶唱ともいえる恋愛文学。(amazon)

 

感想

ナラタージュの感想をネット上でチラチラ読んで見ると、その多く感想に葉山先生がズルいという点を挙げられている。

 

  • 結婚していることを隠していること
  • 自分に好意を持っていることを知りつつ泉に連絡を取ること
  • 最後の一線を泉に越えさせること

 

確かに同性から見ても自身の手を汚さないような恋愛の手法はズルい印象を受ける。それら多くの意見は至極まっとうで、僕もおおむねその意見に賛成だ。だが言葉を正確にするならば、それはズルいというよりも“罪な男”だなという印象を受ける。

 

半端に優しくて、半端に弱い罪な男、それが葉山先生だ

 

泉の好意を知っていてそれに応じない、というよりも応じる気はないのに連絡を取り、泉をそばから離そうとしないこと。それらは、葉山先生が泉の好意につけこんだ行いではなく、彼は彼なりに考え、泉を想い行動した結果、それでも自らの弱さから生まれてしまう精神的な依存に思える。そして、その依存を苦しみながらも喜び答えてしまう泉。キュンときちゃう泉。もうこれは避けようがない。

 

そんな半端な接し方は、しかし泉にも見られる傾向なのではないかと思う。葉山先生が罪な男であることに疑う余地はないのだが、その罪な部分を泉も持ち合わせていると僕は思うのだ。登場人物の小野君に対する接し方がまさにそうだ。葉山先生が泉に対してしていることに近い行動を、泉もまた小野君にしている印象を受ける。

 

似ているからこそ二人は惹かれ合い、似ているからこそ離れることが出来ない。お互いを必要としているが一緒に入られないという苦痛と、一緒にいられないのであれば壊してほしいという切ない願望がそこには存在している。どちらかがズルい恋愛ではなく、二人とも弱くて、二人とも優しい恋愛。僕は二人の恋愛からそんな印象を受けた。

 

最終的な結末では、二人は別々の道を歩んでいくことになるのだが、離れ離れになった二人の痛みは、泉だけが感じているのではなくお互いが等分に分け合っている。二人の痛みが等分ならば、その恋はまだ救いがあるのではないかと感じた

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ナラタージュの意味

ちなみにナラタージュとは映画用語で、narration(ナレーション)とmontage(モンタージュ)が組み合わさった意味で、映画において画面外の声に合わせて物語が展開していく技法のことをいう。ある人物の語りや回想によって過去を再現する手法なので、作品においても現在の泉が、自分の語りで過去の葉山先生との恋愛を語っていく。

 

過去を語っているのに、今現在のことのように鮮やかに出来事や感情を表現している泉の感覚は、泉が過去に重心を置いていまだに引っ張られているような状態を表しているように感じられるのは、作者の狙いかもしれない。

 

また、泉の視点で語られる葉山先生に対する衝動のような恋に対して、まったく心が揺さぶられない恋人・小野君への感情も泉の感覚で表現されていて、泉は意識していないかもしれないが、語られる言葉からはここまで違いが生まれるのかと驚くほどの温度差で恋愛描写がされている。小野が泉に求める感情。泉が葉山先生に求める感情。そのそれぞれに願っても得ることができないすれ違いの愛情が存在しているようで、読み手の心を余計に悲しくさせていくようだ。

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とはいえ不倫

作品にはこんな言葉が添えられている。

 

決して許されない、けれど一生に一度しか巡り会えない、永遠に心に刻まれる狂おしいほどの恋―。

 

そんな甘美で情熱的なキャッチコピーは名言で、一人の女性と一人の男性が共に求めあう特別な愛の物語を連想させるものだが、はたして二人の恋はそんなに狂おしいほどの恋なのだろうか?内面がモノローグで語られるので感情移入してしまうが、やっていることだけを見ればただの不倫だ。

 

二人の間柄がどれだけ純粋でどれだけ情熱的だろうが、芸能人が不倫をしたときにバカみたいに叩いている人間が、この作品を読んで「感動したぁ超泣けるぅヤバイ」とか言ってたらグーパンものだ

 

結局のところ、この恋はただの自分勝手な恋だ。しかし、恋とは常に自分勝手なものなので、この作品の恋とは読み手のみなに平等に訪れるであろう素敵な恋愛の一つに過ぎないのではないだろうか。きっと、言葉にしていないだけで、これを読んでいるアナタにも、泉と同じくらい愛に焦がれて相手を求めたことがあるのではないだろうか?

 

だから僕は『ナラタージュ』が狂おしいほどの恋、少なくとも特別な恋だとは思わない。

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罪な男

それを言ったら相手が自分に好意を抱くであろうことが分かったうえで行動し、最後の一線を相手に超えさせる男のことを、僕は罪な男と呼んでいる。葉山先生がまさしくそうなのだが、相手が自分に惚れていることをわかった上で、近い距離で接する人間はどんな思考でいきているのだろうか?

 

ひとつは、相手の好意を知りその気持ちにこたえられないのに近くに置くことで、自尊心を満足させているタイプ。もしくは、恋愛をしている時間そのものが幸せであると考え、相手のドキドキも幸せの内だと捉えているタイプもいる。究極を言えば何も考えておらず、ただ自分の好きなように接しているタイプもいる。

 

最後のタイプが一番“罪な男”といえるだろう。

 

僕の身近にもいるが罪な男とは世の中に一定数存在するのかもしれない。

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映画『ナラタージュ』

冒頭にも書いたが、この作品は映画になっている。

キャストも豪華で小野君が坂口健太郎というのが意外なチョイス。誰がやるんだろうと自分なりに予想をしていたのだが、坂口とは・・・使いかたがもったいない、笑。

 

葉山貴司/松本潤

工藤泉/有村架純

小野玲二/坂口健太郎

山田志緒/大西礼芳

黒川博文/古舘佑太郎

塚本柚子/神岡実希

金田伊織/駒木根隆介

新堂慶/金子大地

葉山美雪/市川実日子

宮沢慶太/瀬戸康史


評判は上々のようだが、個人的にはキャストミスのような気がしてしまう。嵐じゃないかなぁ…まぁ強いて言えば松潤だけど、それでも嵐ではないと思う。それに原作と違う部分もチラホラ。表かもイマイチ。

 

泉のモノローグがあるので、確かに映像化には向いているかもしれないが、やはり僕は小説の方が魅力的に感じてしまうのは、小説が好きだからだろうか。

 

 

最後に

僕は『ナラタージュ』を読み終わったあとにこの本を胸に抱いて走り出したくなるような、内側から湧き出てくるエネルギーを感じていた。人生に一度だけの恋。何も見えなり壊れてしまうような恋。今まさにそんな恋をしている人がこの作品を読んでしまったら、感情移入をしすぎて体調を崩してしまうかもしれない。

 

読む人は気を付けて欲しい。『ナラタージュ』は狂おしいほどの傑作なのだ。